興玉大神 御名 猿田彦大神
相殿 宇迦乃御魂大神
猿田彦大神は天孫降臨の節、天八衢にて天孫をお迎えご先導を以て御神威を顕わされました。
その後、「吾は伊勢の狭長田五十鈴川上にいかん」と仰せられ、天鈿女命の侍送により伊勢に還りこの地に住まわれました。
第十一代垂仁天皇の皇女倭姫命が天照皇大御神を奉戴され、この二見浦に御舟を停められたとき、興玉大神は海上の厳島に出でまされ、御神幸を守護し、五十鈴の川上に大宮地を定められました。
そして、未来永劫、皇大神宮大宮地の守護神として鎮まられ、内宮御垣内に興玉神が奉斎せられるに至りました。皇大神宮では、現在も古儀の三節祭の折に内宮御垣内西北隅に御鎮座の地主の神、興玉神をお祭する興玉神祭が行われ、奉仕員一同が過ちなくご奉仕できるように祈ります。
(御鎮座出典:『神皇正統記』巻二、『倭姫命世紀』より)
当社の創始は、此の厳島を大神の坐す島と崇め敬い興玉神石と尊称し夫婦岩(立石)として注連縄を張り、その前に遥拝所を設け拝礼致したことによります。
その後、第二十一代
雄略天皇の御世に雄略天皇に仕える臣下が伊勢神宮を参詣後、二見の浦へ行きました。そこへ神田に水を引き入れている老人に会います。臣下が川の謂れを老人に尋ねると、天照皇大御神を奉戴した神鏡を戴いた倭姫命が諸国を巡り、この地へやって来た時に裳の裾の汚れを川の水で濯いだことから、御裳濯川と名づけられたと語ります。
皇大神宮の御鎮座に至る謂われに興玉神が関わっている事を語り、自身が興玉神であると告げ消えられました。その夜、臣下が旅寝をしていると、興玉神が現れ、舞を舞い雄略天皇の泰平の御代を祝福なされました。
世阿弥が金春流の金春禅竹に相伝したとされる『能本三十五番目録』に初出としてあり、現在も能の中で語り継がれております。
その後、天平年間に僧行基がこの地に参り、興玉神の本地垂跡と称し観世音菩薩を本尊に迎え江寺を創建、興玉社を鎮守の神として同寺の境内に社殿を設け、仏者の手において祭祀が執り行われました。
時が移り明治九年、神仏分離により新たに元の立石前に神社として御造営御鎮座されたのであります。
興玉大神の由来は、起魂・招魂であり、魂を導き甦らせる神であり、人々が過ち無く過ごせる様に導く大神であります。
その御神徳は、魂を起こし二身(自らの姿の善と悪を省みて)禊祓の御稜威により魂を導き清め、甦らせる大神。
土地の邪悪を鎮定し守護し給う大地主大神、または衢神として土地の災厄を祓い清め道を開く大神であります。
相殿神である宇迦御魂大神は天乃岩戸の内に祭祀せられた元三宮神社(三狐神社)の祭神であり、二見町茶屋区の氏神にして、豊宇氣大神の御別名、御饌都大神であります。
文禄年間に天乃岩戸内より外側に遷座し奉り、明治43年元興玉社と元三宮神社を合祀し奉り二見興玉神社と神社名が改められました。
宇迦御魂大神は衣食を満たし産業を加護し給う大神であります。
興玉大神 御名 猿田彦大神
二見浦の名称は皇大神御神幸の途次二見浦に着船せられたとき、倭姫命の御尋ねに大若子命より『速雨二見の国』と御答へしたに初まり、天下の絶勝宇内の霊域として、その名は夙に四方に喧伝せられ、立石(夫婦岩)の前に額づくもの目に相踵ぎ、殊に春秋の佳期には殷盛を極めるものであります。
冒頭に述べるように第十一代垂仁天皇の御代、皇女倭姫命が皇大神である天照皇大御神を奉戴され、この二見浦に御舟を停められた時、興玉大神が海上の厳島(興玉神石)に出まされ、御神幸を守護し奉り、五十鈴の川上に大宮地を定められました。
そして、未来永劫、皇大神宮大宮地の守護神として鎮まられ、内宮御垣内に興玉神が奉斎されるに至るのです。
尊い御神徳を現わされた興玉神は、皇大神宮大宮地の守護神として尊崇され、厳島は興玉神石と尊称し、立石崎の立石(夫婦岩)に注連縄を張り結界とし、その前に遥拝所を設けて礼拝したのが当社の創始となります。
その後、雄略天皇の御世に泰平の御世を言祝ぐ霊験を発現され、天平時代に僧行基が此の地に来りて、興玉神の本地垂迹なりと称して観世音菩薩を本尊となして江寺を創建し興玉社を鎮守の神として同寺の境内に社殿を設け、仏者の手において祭祀が執り行われました。
しかし、明治9年に神仏分離により立石(夫婦岩)前に御造営御鎮座されました。
当時、境内には天の岩屋の内に祭祀せられた三宮神社(三狐神社)が鎮座されており、興玉社と三宮神社が合祀され、明治43年に二見興玉神社と改められました。
次に掲ぐる神宣は御鎮座伝記と云う古書に依りて伝えられるもので、倭姫命が宇治の五十鈴の大宮にいますときに猿田彦大神が現れ給いえ皇女その他の人々に訓え悟し給える中の御言葉でありまして、いとも尊き事と思い、特に抄記致します。
吾是天下之土君也故号ニ国底立神一也
吾は天下の大地主にして土地を守るの主なり、故に国土の根底に立ちます神と名ずけたり
吾是応レ時従レ機比化生現之故号二気神一
吾また時の必要に応じ、その場の機宣に従いて自在に出で現われ護りて到らざる所なきが故に気の神と名ずけたり
吾又根国底国与里鹿備来物仁合卒守護之故号二鬼神一
吾又大地心の国(根の国底の国)より悪鬼邪神の地表に出で来りて大いに世を害い人を苦しめむと荒び碍ぐる妖魔に相卒りつつその惨害を制禦ぎて生民を護るが故に剛く畏き神と名ずけたり
吾亦為二生物一仁授二興寿福一之故名二大田神一
吾又行き居る物の為に生命と幸福とを授け与えて、その生を楽しみその寿を全からしむが故に豊かに頼みある大田神と名づけたり
吾能反二魂魄一之故号二興玉神一
吾能く人の陽魂陰魄の去りて死なぬとする、その魂魄を引き反し身の体中府に留めて蘇生らしむるが故に興玉神と名づけたり
悉皆自然之名也物皆有二効験一矣
是れ等の名はみな悉く吾が徳化そのままより出でたる自然の名にして人意をもって、ことさらに作り設けたる名にあらず、実績確守にして名目から之に従い居るものなれば一切の地物に就きその効験の確実なるをもって知るべきなり
古来より興玉石・鏡岩・御膳岩・厳島と称せられます。
楕円形の平岩にして、三ヶ所に岩柱が立っており、往古この神石は露出しておりましたが、今は暗礁となり海中に鎮座されます。
猿田彦大神が皇大神御神幸を迎え奉り御神功を顕された御神蹟であり、また猿田彦大神縁の御誕生に関わる御神石とも言われております。伊勢湾内航海の舟人は澳霊と崇敬して深く畏信し、伊勢海二見浦の守護神座として広く世の崇拝する所となっております。
写真のように、4月頃の大潮の時にうっすらと無垢塩草が岩礁に繁茂した興玉神石を拝せるときがあります。
岩は高さ9m、周囲は44mで古生層の最下部である輝光石と緑泥片石からなり、小岩は高さ4m、周囲10mで方解石からなり、大注連縄の長さは35mあります。
夫婦岩の中央からさし昇る朝日は6月の夏至を中心に5・6・7の3ヶ月間拝されます。
猿田彦大神ゆかりの霊石である「興玉神石」と、岩の間から昇る「日の大神」を拝する鳥居の役割を果しており、日の出の遥拝所でもあります。
大岩・小岩を結ぶ大注連縄は「結界の縄」と称され、夫婦岩の向こうを海の彼方から常世神が寄りつく聖なる場所とされてまいりました。
大岩は男岩・立岩(たていわ)、小岩は女岩・根尻岩ともいわれ、両岩が「夫婦岩」と呼ばれるようになったのは明治以降のことであり、それまでは総称して「立石」、親しみを込めて「立石さん」と呼ばれてまいりました。
当地が古くより立石崎と呼ばれてきたことに由来しております。
その立石を神門とし、興玉神石の遥拝所を設けたのが当社の信仰の始まりであります。天候が良い明け方には夫婦岩の間から富士山を拝する事もできます。
当社の夫婦岩に掛けられた大注連縄は古式に則り奉製されるもので、縄の長さが35m、大岩に16m、小岩に10mが巻かれ、その間の長さは9mあります。
この大注連縄は年三回5月5日・9月5日・12月潮時の良い吉日に張替えられます。
この大注連縄奉献の意味は、一切の不浄を祓って日の大神及び興玉神石遥拝の鳥居に献ずる古いならわしであります。
大注連縄奉献は約700年前、文保年間に奉献されており、長い歴史を有します。
また、輪注連縄は小注連縄の事であり、その代用にして、同じくこの霊地にて参拝に訪れた方が禊斎するために、身を祓いし上に社頭に奉献するのが習わしです。
安政年間の津波以前は、大岩の前方に螺旋状の岩があり、参拝者は小注連縄を此の岩柱に奉献したと伝えられています。
古語拾遺に「今の斯利久米縄、これ日輪の像也、縄をもって丸くつくり日の影をなしたるをいうなり」とあり、この輪注連縄は日の大神様である日輪を表し、参拝者は此の輪注連縄も以て身を祓い、神前に奉献致します。
境内には4ヶ所に輪注連縄が設置されております。
(拝殿前・遥拝所前・岩屋前・龍宮社前)
二見浦に太古倭姫命が天照大神を奉戴して御船をとめさせ給うた興玉神石の附近から採取します。
当社は禊の霊場で、身を清め穢れを祓い神宮に参拝するのが古くからの吉例になっています。
当社では禊祓の伝統により御霊草無垢塩草にて祓いをおこなっておりますが、受祓されない方に奉製した無垢塩草をお頒ち致しております。身につけて頂き、又は禊斎にて不浄をお祓い頂いております。
境内に多く見受けられる蛙の奉献は、元来この地が御日の神の拝所であり、皇大神を御日の神と崇めたる時代に在りて、祝詞式に、所謂、谷蟆々の狭渡る極みなどあり、日の神に谷蟆々(蛙)を献じたるものなりと伝えられ、又、御神石である興玉神石を伊勢の海の守護の澳魂とあがめ、龍神崇拝の精神を一つにして、龍神は雨を喜ぶと云う意味から蛙を献ずるのであるといわれ、社伝には神宮参拝者が、旅の安全、航海の安穏を祈念して無事「かえる」の願からでたものとも云い伝えられています。
当地は不浄汚穢を禊祓う霊場であるところから、蛙を戴いて小児の痒、腫物その他病痛の邪気を祓って必ず快癒といわれ、信奉されてきました。
現在におきましても、御参拝の皆様は無事かえる・貸したものがかえる・若かえるなどの縁起により御利益をいただいております。
古来より人々は二見浦に詣で、夫婦岩の間から差し昇る「日の大神」を拝してまいりました。
この伊勢の海清き渚より波の穏やかな暁に水平線を金色に彩って、霊峰富士の白峰を浮かびたたせながら、その山影を望み、その背から輝き昇る朝日、取り分け夏至の朝日を拝する神厳さは筆舌に尽くし難い感動を覚えます。
当神社よりの日の出は古くから名高く、パリのギーメ博物館にも「伊勢の神聖の岩」と題した夫婦岩の油絵が掲げられている世界的名勝であります。
当地に立たれ清い暁の潮風に身心を祓い清める時、日本人の幸福と自覚を新たにするものです。
伊勢の二見浦は清き渚と呼ばれ、神代の昔より霊域であり何処よりも清浄な浜辺として尊ばれて参りました。
古くよりその一帯を禊浜とい伊勢参宮を間近に控えた参拝者が、浜辺で汐水を浴び、心身を清め禊祓をされた禊場でありました。
浜参宮とは清き渚と称えられる二見浦の二見興玉神社に参宮される事であり、禊をなされ、穢れを祓い清め心身を清浄にされてから、伊勢の大宮である神宮へ参拝されるのが慣わしであります。
伊勢の神領民はお木曳・お白石持ち行事・重要な地域の祭典の前には先ず二見にて浜参宮とするのが第一で、古来よりの伝統が受け継がれています。
皆、地元の団ごとに揃いの法被に幟を先頭に徒歩にて二見旅館街を行進し、家族親族、地域の方々打揃い、お木曳・お白石持ち行事に参加の意識を高揚、連帯感の確認を行いつつ、無垢塩祓を受け、木遣りを奉納致します。
禊斎にて気を引き締める連帯感の確認、神聖な神宮行事に過ちなきようにと誠に意義深いものと考えられます。
往古この郷に津波襲来し、郷人困窮して神の御加護を願う外はなしとして海の守護神と仰ぐ綿津見大神を勧請して奉祀され、その後の寛保の荒浪、明治の高潮にも御神威の霊顕があり被害を減じ益々信奉の念を高められました。
その御神徳の程甚だ厚く地元氏子は元より、遠近の数多の崇敬者の方々から龍神さん、龍宮さんと厚い御崇敬を賜っております。
寛政4年5月15日に氏子地域である江地区が大津波により流出、難を逃れた家はわずか5、6軒という大被害に見舞われました。
その様な中、村中施し合い、この危機から立ち直りました。
現在、龍宮社は陰暦5月15日に例祭併せて郷中施神事を執り行います。
この祭典では、きゅうり・なす・みる・おご・まつ菜等が供えられ、「津波が急にきたら見るな、待つな、おごるな」の先人等の尊い教えが今もしっかりと生きています。
参道の突堤のほとりに東面の岩窟がありますが、この岩窟は往古より宇迦御魂大神を祀った三宮神社がご鎮座されておりましたが、文禄年間に外側の境内に遷祀されました。
古来より日の出を拝む夫婦岩とともに日の大神がお隠れになった天の岩屋と伝えられて崇拝されております。
文治二年東大寺衆徒参詣記
おもしろく見ゆる二見の浦わかな岩戸のあけし昔ならねど 慶尊
二見潟天の岩戸のあけくれもながめて世をばすきぞしぬべき 景惠
古来の岩屋のほとりにて菊酒と稱する神酒及び無垢塩草を授与し、貝殻を販されており、現在の岩屋授与所がその旧地であります。
境内にて夫婦岩を拝する展望を有し、明治45年5月、皇后陛下行啓の際に、此の所に御休憩され、全面に於ける海女の作業を台覧あらせられて展望を賞讃あそばされました。